蛍
不意に耳が鼓膜が裂けた。
痛い。
心に凍みる、痛い音。
赤ん坊が、顔を歪ませ声を限りに泣き叫んでいた。
その泣き声は、傷の痛みがもたらしたのか不在の母を求めてか。
理解を求めず、ただひたすらに泣き続ける。
世界の中心であるパスタリエの直下に位置するスラムは、治安と引き換えに誰でも迎え入れる。例えばそれが、I.P.D.に感染したレーヴァテイルであったとしても。
I.P.D.は詩魔法を奏でるレーヴァテイルにのみ特異的に感染し、発症すると感情の不安定化と詩魔法の暴発という症状を表す。そして厄介な事に、感染個体の近くにレーヴァテイルがいた場合、その健康体まで感染・発症する確率が跳ね上がる。メタ・ファルスの中枢機関たる大鐘堂が、躍起になってI.P.D.発症個体を捕獲し隔離する、表向きの理由もそこにあった。
そんな中にあって、スラムは正しくI.P.D.の温床だった。I.P.D.感染個体が大鐘堂の目をかいくぐって隠れ住み、来る者拒まずの姿勢が超過密人口を生み出す。結果一人が発症すると、連鎖反応で次々とI.P.D.発症を引き起こし、暴動にまで発展するのである。
今回の暴動鎮圧も、だから大鐘堂にしてみれば常なる事だった。スラム特有の瓦礫が散乱する地面が、避難の足を遅くし詩魔法で飛び散った火を遠くまで運ぶ。強い硫黄の臭いと体を歪に折り曲げた真っ黒焦げの焼死体と。それもまた、いつもの。
今回に限ってクローシェが、鎮圧部隊派遣の認可印を押した事以外は。
或いは以前から押していたのかもしれない。ただ気付かなかっただけで。
自分が無意識ながらも判を押したその責任として結果を見届けない訳にはいかないと、大鐘堂総統であるアルフマンに追従してスラムに来たのも、初めてだった。
余りの惨状に、ただただ己がちっぽけだった。ただ人々が逃げ惑う様を遠く眺めるしか出来ない。暴走を起こしたレーヴァテイルを確保する為に、幾人もの大鐘堂騎士が倒れていく。アルフマンの後に付いて怪我人の簡易収容所に来てみれば、火傷を負って泣き叫ぶ赤子を抱えた騎士が収容所に飛び込んでくる。炎に呑まれて逃げ遅れた母親の命を代償に、それでも辛うじて生き延びたのだという。その赤ん坊を胸に抱き、クローシェはひどく驚愕していた。
軽い。
こんなにも軽くなれるものなのか。人間というものは。
確かに命を吹き込まれている筈の赤ん坊はだがしかし、今にも消し飛びそうに軽かった。
がりがりに細い手足。下腹部ばかり突き出た胴体。今までに触れたどの赤子と比べても、この赤子が栄養失調である事は明らかだった。
この赤ん坊をここまでしたのは、全て辿れば自分にその責任があった。例え実際に大鐘堂を動かしているのがアルフマン一人であったとしても、対面上トップに立っているのはクローシェとアルフマンの二人である。即ちそれは、アルフマンの言動とクローシェの言動が一致していると示しているに相違無かった。
気付かなかったなんて、言い訳だ。
わたくしは、大鐘堂の御子、大鐘堂の象徴なのだから。
知らなかったでは、済まされない。
わたくしは、大鐘堂の全ての責任負う身なのだから。
「クローシェ様、御召し物が汚れます。」
「構いません。」
「ですが・・・。」
跪いて泣き続ける赤子を見やる。身に巻いてあったろう布は既に消し炭と化し、裸同然である。皮膚のあちこちに水疱を発して殆どが破れている。力無く広げられたか細い指は、一面びっしりと炭で覆われていて、何かと触れればそれは炭化した指の皮膚だった。硫黄の臭いは、燃えた髪の、それ。
啖呵を切ったは良いものの、どうすれば良いのか、分からなかった。
大鐘堂の御子室で、あたかも籠に閉じ込められた夜啼鳥の如く育てられたクローシェは、応急処置の方法を知らない。
どうすれば良い?子供が火傷を負った時、どうすれば良いの?水を掛けるのか。氷をあてがうのか。薬を塗るのか焦げた皮膚はどうすれば。
今のクローシェに、これだけの火傷を治せるだけの詩魔法は無かったし、あったとしても実際謳う事は出来なかった。
御子たる者安易に謳う無かれ。
威厳と神聖性を保つ為と、アルフマンがそう命じたのである。そのアルフマンの眼前で謳う勇気が、クローシェには無かった。
はらりと頬を伝うものが、自分でも信じられなかった。
悔しい。たった一つの、小さな命すら救えない自分が、口惜しい。力も、勇気も無い自分が悔しかった。
目の前の命も救えないで、どうしてメタ・ファルス全ての民を救えるというのか。
はらはら流れる涙は赤ん坊に落ちる。
赤ん坊は泣き続ける。
痛い。
心に凍みる、痛い音。
軽い体を震わせて、体中を赤く染めて。
まるで、それは、想いを詩に込めて戦う歌姫のように。
やせ細ったその体の何処から出しているのかと思える程に続く泣き声は、ゆっくりと、確実にクローシェの心を切り刻む。
さくりさくり。傷口から血は流れず、ただ空気が傷口を撫で回しすうすうと痛ませる。
再び睫に溜まる涙は、痛みを溶かそうと次々に溢れてくる。
同時に安堵と喜びが溢れる。
生きている。この子は、生きている。
ぼろぼろになって、母親を失って、それでもまだ、生きて、生きたいと叫んでいる。
赤子の泣き声は、痛みと傷と、そして喜びとをクローシェにもたらした。
「クローシェ様・・・。」
おずおずと掛けられた声に振り向けば、先程クローシェに叱咤された御子室直属のメイドの一人だった。
「医務班の方が。」
「クローシェ様、火傷を負った赤ん坊は?!」
「ここにいます。」
涙を拭い立ち上がるとクローシェは、駆け寄ってきた医師に抱いていた赤子を見せる。
「助かりますか?この子は。」
「火傷の面積は見た目程ありませんが、破れている水疱が多いので・・・。」
何とも言えないと語尾を濁す医師。
「御子の名に於いてお願いします。どうか、この小さな命を。」
「承知致しております。クローシェ様が涙を流された命だ。何が何でもお救いしましょう。」
未だ泣き続ける赤ん坊を受け取ると、医師はクローシェにそう返した。
「クローシェ様。」
メイドが再び声を掛ける。
「そろそろ大鐘堂にお戻りになりませんと・・・。」
「・・・アルフマンは、何処にいるのです?」
先刻までクローシェのそばに立って事の成り行きを黙視していたアルフマンが、気付けばいない。
「騎士隊長のレグリス様と話される為に、スラムの奥へと参られましたが・・・。」
「そう・・・。では、帰ります。」
「承知しました。」
ここには、もう自分がやれる事は何もない。いや、初めから自分に出来ることなど無かったのだ。
それでも、とクローシェは思う。
それでも、ここに来た意義はあった。
掌に残る、軽くて重い確かな感触。
耳に、心に深く刻まれた痛み。
それは、今まで紙切れ一枚の上で滑っていた御子としての責任が、初めてクローシェの双肩に乗せられた瞬間だった。
或いはクローシェの成長を見て取ったアルフマンが、こうなるように仕組んだのかもしれなかった。クローシェに、御子としての自覚を芽生えさせる為に。
それでも、構わなかった。
結果としてクローシェは己に掛かった重責を理解し、御子としての大いなる一歩を踏み出す事になったのだから。
覚えておこう。この重みを、心の傷を。
ぱっくり開いた傷口は、永遠に塞がる事無く、思い出したように痛んではきっと己を導いてくれるだろう。
民が須く幸せになれる理想郷、メタファリカへと。
了
光の中で死の舞踏曲を踊りましょう。