常世、或いはその教誨 TITAN 1
五月廿五日 「少佐の容態は?」
「大分安定して来たようだ。あと数日の内には退院出来るだろう。」
新浜中心部。
規則性もなく、オフィスビルが立ち並んでいる。
ただ寄せ集めただけにも見えるその建造物達は、まるでバベルの塔の紛い物であるかの様に虚しさを漂わせていた。
その“紛い物”の一つにある一室に入って来たのは、義眼の大男――バトーであった。
手にした報告書を、大きな机を前に深々と腰を下ろす荒巻大輔へと手渡す。荒巻は軽く溜息を吐き、それへ目をやる。
その視線のまま、机の前に立つバトーに言葉を続ける。
「今回の作戦で、大掛かりな武器の密売組織を壊滅させる事が出来た。押収した武器が犯罪者の手に渡っていたかもしれない事を考えれば、被害は最小限で喰い止められたと言って良いだろう。」
「少佐の事を除けば、な。」
「ああ・・・。下半身喪失による失血と出血性ショック、脊髄膜損傷による髄液の減少、とそれに伴う軽度の一時的電脳壊死、義体の熱ダレ・・・。完全義体でなければ即死だっただろうな・・・。」
部屋を出ようと踵を返すバトー。
それへ、荒巻が声を掛ける。
「バトー。」
「何だ?オヤジ。」
「トグサはどうしている?」
カタ、と報告書と机とが触れ合う。
バトーが答えた。
「ここ118時間で、食事は3回、睡眠は3回、内仮眠室を使ったのは1回。総時間は10時間と34分。」
「家に帰ったのは?」
「0に決まっているだろう。」
「そうか・・・。病院から帰って来た時の様子から、お前を行確に付けさせたが・・・、杞憂であればと思ったのだがな。」
「どうする?」
「今ここでトグサにまで倒れてもらっては困る。バトー、お前が自宅まで引き摺ってでも送ってやれ。」
「了解。」
バタンとドアが閉められる。
長い溜息が荒巻の口から漏れた。
「少佐一人がいない位で・・・。情けないな。9課も、儂も・・・。」
そう呟いた荒巻は、公安9課長を勤めている。
公安9課、別名攻殻機動隊。
増殖する凶悪犯罪に対抗して設置された完全攻性の国家組織である。
警察よりも早く動き、軍よりも身軽なこの組織は、ともすれば社会にとって危険因子ともなりかねない。
それを抑止しているのが“個人の能力”である。
公安9課の構成員がそれぞれに確固として持つ思考・判断力。そして、“正義”の思い。それが、公安9課を公安9課たらしめているのだ。
それ故に、構成員が一人欠けるという事は、他の組織以上に重要な意味を持つ。
それが、9課のリーダー的存在となれば、尚更であろう。
草薙素子。又の名を“少佐”。
公安9課のリーダー的存在である女性。
幼い頃に電脳・全身義体化を余儀無くされ、そしてそれ故に今では“世界屈指の義体使い”“電脳戦のエキスパート”としてその名を馳せている。
その草薙が負傷した。テロリスト集団との銃撃戦の最中、倒れる鉄骨に胴を真二つに切断されたのである。
現在の所は、病院で集中治療を受けている。
他のメンバーが、表に出さずとも、少なからずその事に衝撃を受けていたのは明らかである。
無論、仕事に支障を来す程軟ではない。
しかし、深い所では、それが平易と異なっている事に自身で気付いていたのも確かであろう。
荒巻のように。そして、トグサのように。
トグサは、バトーが己のすぐ後ろにいる事に気付いていない様子だった。
トグサの顔のすぐ横に、ぬうっと自分の顔を突き出すバトー。
「オイ。」
「!」
トグサの身体は、明らかに過剰の反応を示した。神経が無残にも痛め付けられ、過敏になっている証である。
まるで引き付けたかの様に全身を強張らせるトグサ。尻が椅子から数センチ浮くのが見て取れた。それを見越したバトーはすぐに後ろに退いている。
「あ・・・ああ、何だ、旦那か。・・・どうしたんだ?」
「俺とお前で外回りだ。さっさと支度しろ。」
「支度も何も・・・。俺は、このままで充分だぜ?」
「馬鹿。いいから荷物を持って来いよ。」
「?・・・ああ、判った。」
のろのろと椅子から立ち上がるトグサ。本人は普通に立ち上がったつもりなのだろうが、明らかにその動きは緩慢である。先程の過敏な反応が、その鈍重さを助長していた。
そうしてまるで夢遊病者の様にロッカールームに向かって行った。
フンと一つ溜息を吐き、バトーはトグサの使用していた机を見やる。
それは、酷く凄惨な有様だった。
彼方此方の機器から伸びる色とりどりのコードが幾重にも絡み合っている。
紙媒体の資料が共用スペースにある机の一つを半ばまで覆い、小高い山まで築き上げている。
筆を乱暴に走らせた紙片が置き捨てられている。
ディスクタイプの資料ですら、無造作に放り出されている。
この環境下で仕事をするなど、普段のトグサからは全く想像もつかない事であった。
トグサが机に物を散乱させる事自体が殊に珍しいという訳ではない。むしろ、その散乱で捜査の度合いが判る程である。
しかし、バトーの眼前にあるそれらは、明らかに何かが異質であった。
明らかに、トグサの中の何かが、異質であった。
荒巻も、バトーも、それに気付いていた。傍から見ていて判らぬ者の方が稀であろう。
それ程に、トグサの中の異質は、壮絶だった。
「遅ェ。」
男子用ロッカールーム。
バトーの言葉に自分のロッカーの前でぽかんとするトグサ。先程より少しばかりこざっぱりして見えるのは、顔を洗った為だろう。前髪が少しばかり濡れてい
た。
「いや、遅いも何も、もう支度は済んでいるから・・・。」
バタンとロッカーの扉を閉める。
「済んでねぇじゃねぇか。」
バトーは歩み寄ると閉められたロッカーを再び開けた。
「ちょっ、旦那!他人のロッカーを・・・!」
慌てるトグサを尻目に、ロッカーからドラムバッグを引っ張り出す。その中へ、トグサの服を片端から詰め込んでいく。
「オイ旦那!何を・・・」
言い募るトグサに詰め終えたドラムバッグを押し付けるバトー。
「さっさとしねェと置いてくぞ。」
「?・・・判ったよ。」
ドラムバッグにいぶかしみながらもトグサは素直に同意した。
雨の降る高速。いつもならば茜に光り出す空は、今は灰色に塗られている。
スカイラインが他の車を抜いて行く。
軽快に、何の不安定さも見せずに。
助手席に座るトグサは、ぼんやりと窓の外を眺めている。
窓を、細い雨がパタパタと叩いては消えて行く。
「・・・で?俺達はどこへ行くんだ?」
頬杖を突き、雨が降るのを見やりながら尋ねる。
「お前の自宅。」
「・・・は?じゃあ、任務は?」
「自宅待機。お前だけな。」
一瞬にして、そしてようやく全てを理解したトグサ。
噛み付かんばかりにバトーを向く。
「待てよ!何でこんな時に自宅待機なんだ!?少佐だってまだ・・・!!」
9課に戻っていないのに、と言外の言葉が続く。
キイッとブレーキを擦らせてスカイラインが停まった。
赤信号である。既に高速からは降りていた。
車の停車を思っていなかったトグサは前へのめる。その身体をシートベルトが強引に引き寄せる。
堪らず呻き声が口から零れた。
「今のお前じゃ、役立たず所か足手纏いにしかならねえ。」
バトーがトグサを向く。
ぐっ、とトグサが息を詰まらせた。
「テメーが一番理解ってんじゃねェのか?」
ふいっと窓の外に再び顔を向けるトグサ。その行為が、肯定の意味を成していた。
窓に映る己の顔。眼下に深く隈が刻み込まれ、頬骨がいつもより張り出している。
青信号。スカイラインはゆっくり発進した。
「少佐の事を考えるな、とは言わねェ。誰だってあの状態を見りゃそうなる。」
薄闇にネオンが眩しい。
「だがな、それを自分の所為だ、と思うな。そいつは思い上がりってやつだ。」
「だけど、俺が敵の武器保有状況を調べたんだ。それに穴があったんだから、俺にも責任はある。」
草薙の身体を真二つにした鉄骨。それは思考戦車の放ったミサイルによって崩壊した建物を支えていた。そして、その戦車の情報はトグサの提出した報告書は存在していなかった。
スカイラインの速度が上がる。それでもふらつく事無く、流麗に滑っていく。
「それが甘えだって言ってんだよ。端から事前に調べた敵の武器保有状況なんざ誰も当てにしちゃいないんだ。少佐が怪我をしたのも少佐の責任だ。それ以外に何にもねェんだよ。」
「そんな事、解かっているさ。」
「じゃあガキみたいな真似すんな。」
更にアクセルが深く潜る。
スピードオーバーのバトーを、いつもの様に咎める気にトグサはなれなかった。
「ここ数日のお前は仕事をしていたんじゃねェ。誰にも構って貰えないガキが、気を引こうとリストカットしてんのと一緒だ。」
トグサは黙っていた。ただひたすら窓の外を眺めていた。
雨水をボンネットが弾く。フロントガラスが薙ぐ。タイヤが蹴り散らす。
ゆっくりと雨の為す音に包まれていく。
五感の全てを、それへと向けていった。
静寂の中に、独り、身を投げ出していた。
雨滴の、一粒一粒の流れていく様を肌に感じていた。
彼にだけは気付かれてはならない。
彼にだけは気付く事は出来ない。
俺の、この感情を。
俺の、この慕情を。
ゆっくりと丁寧にスカイラインが停まる。
「着いたぜ。」
無言の内に、トグサは車から降りた。
トランクに入ったドラムバッグを担う。
助手席側の窓が下げられる。
トグサとバトーの目が合った。
「・・・明後日のマルハチ・ヒトゴにここで待ってろ。」
「・・・解かった。」
「1日かけてじっくり頭を冷やしとけよ。」
バトーはトグサの光の無い瞳から目を逸らし、窓を閉めた。
アクセルを踏まれたスカイラインが去っていく。
「絵に描いた様な捨て犬だな。」
雨に重く濡れ、ぼうっと立ち尽くすトグサ。
その様をバックミラー越しに見て、バトーは一人呟いた。
まるで捨てられた仔犬じゃないか。
トグサは今の己が身を揶揄した。
独り雨の中を放り出され、成す術も無くただ佇立する。正に、捨てられ、雨の中必死に鳴き叫ぶ仔犬そのものだった。
雨粒が己の頭を、肩を、容赦なく叩いていく。
髪を濡らした雨が、そのままトグサの顔を撫でていく。
それは、酷く残忍な愛撫であった。
トグサは身体の底から悪寒が走るのを情けなくも止められずにいた。
自宅となっているマンションの一室の前に立ち、ドアノブを久し振りに回す。
抗うように、扉は開かなかった。
「出掛けてるのか・・・。」
ポケットから出した鍵で中に入ったトグサは、己の身体中に張り巡らせた緊張が、一本ずつ、ぷつん、ぷつん、と切れていく様を、他人事の様に感じていた。
ドラムバッグが肩からずり落ちる。
覚束ぬ足取りでリビングに向かうと、ソファが濡れるのもかまわずに倒れ込んだ。
既に身体の中で澱と化してしまった疲労を、息と共にゆっくりと吐き出し、そのまま眼を閉じた。
幻影。
見ている者にしか見えないが、しかし見ている者には明らかに現実として存在するもの。
彼女の顔。
造りものの。
美しく、完璧な。
長い睫毛が白い頬に影を描く。
白い頬に対照な赤い唇が痛ましい。
ひく、とも動かない。
人形の様な、いや、人形そのものの顔に、血飛沫が飛び散っている。その様が、これ以上ない程に狂乱だった。
下半身を喪失した義体が、床に投げ出されている。
思わず、跪く。
彼女本来ではないその肉体。
色とりどりのコード。
人工筋肉。
何やら解からぬ部品の類。
チタン製の人工骨。
そういった物が切断面から覗いている。
全てが彼女のものではなかった。
彼女ではなかった。
普段それらは彼女と呼ばれていた筈であったのに。
それら奇異の物々の間から、それは自らの姿を曝け出していた。
そして、それに包まれたたった唯一の彼女そのもの。
幻影。
見ている者にしか見えないが、しかし見ている者には明らかに現実として存在するもの。
堅い殻に覆われた彼女自身。
脊髄。
それに連なる脳。
脳。
それに連なる脊髄。
チタンの殻に覆われた。
淡青色の溶液に浮ぶ。
色とりどりのコードに繋がれた。
電子機器の表示する波動が、彼女の存生を叫んでいる。
彼女を護るもの。彼女の成さんとする外界への膨張を妨げるもの。
硬いチタンの殻。
彼女を襲ったギロチンは、それへもその残忍な刃を抜いていた。
堅いチタンの殻が割れている。
割目から溢れ出たものは、果たして何であったのか。
固いチタンの殻が割れているその割目から溢れ出たものは。
幻影。
現実でないもの。
彼女の顔。
造りものの。
美しく、完璧な。
長い睫毛が白い頬に影を描く。
白い頬に対照な赤い唇が痛ましい。
ひく、とも動かない。
人形の様な、いや、人形そのものの顔に、血飛沫が飛び散っている。その様が、これ以上ない程に狂乱だった。
冷たい頬に触れる。
何度も指を滑らせる。
パリパリと、こびり付いた血が剥がれていく。
血痕の無くなった頬を、それでもまだ撫で続ける。
つ、と親指が唇をなぞる。
微かに、極めて微かに、乾いた空気が漏れていた。
震える両の手で頬を囲む。
顔が近付く。
少佐・・・。
甘美に打ち響くその囁き。
眼を開けると、そこに妻の顔があった。
「お帰りなさい、あなた。」
「パパ!おかえり!」
「えりー。」
娘と息子が、ソファの背凭れから身を乗り出している。
久々に父親に会えた事の喜びからか、溢れんばかりの笑みで顔を一杯にしている。
「ただいま。皆も、お帰り。」
身体を起こすとブランケットがずり落ちた。妻の掛けてくれたものだろう。
「ただいま。」
妻が微笑みながら応える。
「ただいま!パパ!」
娘が背凭れから降りたり登ったりして飛び跳ねる。
「たーいまー。」
息子が、姉を見習って背凭れから降りたり登ったりしようとしていたが、一度降りた所で登れなくなり、姉に助けを求める。
「もうすぐ夕ご飯が出来上がるけど・・・、先にシャワーを浴びた方が良いわよね。そのままじゃ風邪引いちゃうから。」
言われてトグサは雨に濡れたままであった事を思い出した。
「ん・・・、そうしようかな。」
「あたしもパパとおふろはいるー!」
「ぼくもー。」
「貴方達はさっき入ったでしょう?」
むーと膨れる子供達。
「ははは。よし、じゃあご飯を食べたら一緒にまた入ろうな。」
「「うん!」」
「着替えはベッドの上に出してあるわ。」
「有難う。」
何故あんな夢を見たのだろう。
シャワーから流れる熱い湯が、トグサの頭を、肩を、叩いていく。
髪を濡らした湯が、そのまま己の頬を撫でていく。
それは激しい叱咤にも思えた。トグサの奥底にある何かを呼び起こしているようにも思えた。
ガラスの結露を手で拭い、トグサは鏡に映った己を見る。
何処にも“奇異なる物”が存在しない身体。
草薙とは相反する存在としての己。
鏡の中の己に、病院で見た草薙を重ね合わせる。
半身だけになった義体から生身である部位を取り出され、得体の知れぬ青白い液体で満たされた水槽に入れられている草薙に。
私立病院の全身義体用集中治療室のその様を、トグサはバトー・イシカワと共にモニター越しに眺めていた。
青白の世界の内包する、チタンの容器に入れられた脳と脊髄を。
それだけが草薙の生身の部分だった。
幼い時分、既に草薙はそうであったのだ。
義体をリサイズしなければならない少(わか)さで。
どれ程辛かったろう。どれ程切なかったろう。
義体を換装する度に、己を外界に曝け出す現実。
義体を換装する度に、その新たな異物に馴染まなければならない事実。
生身のトグサには想像するより他に無い。しかし、それだけで充分だった。
“精神と肉体は不可分だ”とは誰の言葉であったか。
そうであるならば、常に精神と肉体を分断され続けてきた者の苦痛は、悲哀は、困惑は。
その苦痛を、その悲哀を、その困惑を越えて生きてきた草薙。
そんな草薙に対して、トグサは敬愛や尊敬の念とはまた違う、自らも形容し難い感情を抱いている自分を見付けていた。
「少佐・・・。」
夢の中で囁いた様に囁く。
鏡の中の己が、右の胸に手を当てた。
とくん。
とくん。
とくん。
とくん。
俺はここだ、ここにいるんだ、と静かに叫ぶ声。
己の総てを、己の永遠の内に支配して来たものの。
トグサは、湯気立つ己の肉体が己自身から離れてしまわぬよう、両の腕を掻き寄せた。
続
そこに無き世界を抱きて眠りたる少女。