Text SSや考察など

常世、或いはその教誨 TITAN 2

  五月廿六日


 眼を開けた。
 正確に言うならば、緩やかな休止状態であった電脳を、通常状態まで戻しただけである。
 開けるべき瞼は存在しなかった。
 無機質に光る円柱形の義眼が、彼の眼窩に填め込まれている。それが、厳つい男の顔を何処となく剽軽にしていた。
 のそ、と上体を起こす。糊の効いたシーツの硬さを皮膚触素で認知しながら、現在の日時をネットから拾い上げる。
 5月26日07時22分53秒。
 衛星時計による誤差0.001秒の正確な値。
 それを確認すると、身体に掛けていたジャケットを肩に担ぎ、その部屋を後にした。

 電子音。直後に、空気の抜けるような音を立てて扉が開いた。
 ダイブルーム独特の暗緑色の光が、バトーを包み込んでいく。
 義眼が、1つのダイブ装置の中に座る男を認める。
 「何だ、まだやってたのか、イシカワ。」
 「ああ、昨日から気になっていた事があってな。」
 装置を装着したまま、男が応えた。
 口の動きに合わせて見事な髭がもそもそと震える。
 「思考戦車か。」
 「大体3年前、組織が実質的な活動を始めた頃まで遡って金の流れを事細かに追ってみたんだが、どうにも思考戦車が買えるだけの金が動いた様子がない。」
 「粉飾でもしてやがったのか?」
 「阿呆。今洗っているのはFIUがまとめた資料と現場でタチコマに記録させた組織の裏帳簿だぞ。その二つから矛盾点が見出せないんだ。」
 「ヘソクリはなし、か。それより前に入手した可能性は?」
 「無きにしも非ず・・・と言いたい所だが、そいつもまずない。」
 「何でだよ。」
 「あの戦車の型は3年前の12月に一般流通が始まったからな。それ以前に入手したとすると試作機になるから、形状が微妙に違ってくる筈だ。」
 ダイブ装置を外し、目頭を揉み解しながらイシカワは続けた。
 「何にせよ、トグサが気に病む事じゃねェのにな。」
 「送って来たのか。」
 「昨日の夕方にな。」
 「『気に病む』ってのは?」
 「少佐が入院してからこっち、ずっと様子が変だったじゃねェか。」
 「ああ、その事か。」
 「?何だよその反応。」
 「いや、俺には“気に病ん”でいる様には見えなかったってだけだ。」
 「他に何かあるってのか?」
 「さて、な。」
 要領を得ないイシカワの調子に、フンとひとつ鼻息を鳴らすバトー。
 ふとその視界が、使われていないダイブ装置のキーボード上に艶かしく反射する物を捉えた。
 透明な液体の入った鈍重なボトルが1本。
 同じ液体の入ったグラスと、なにも入っていないグラスが合わせて2杯。
 ダイブルームを照らす光の中で、淡く緑に染められている。
 ボトルには金と赤の鮮やかなラベル。
 白く抜かれているのは毛筆の厳めしい漢字。
 「こんなモン職場で飲みやがって。」
 バトーはボトルを手に取った。
 五粮液。
 白乾酒の中でも最高級を誇るアルコール度数52の中国酒である。
 「課長には黙っておけよ。」
 悪びれもせずに抜け抜けと言うイシカワ。
 バトーの手からボトルを奪い、空のグラスに酒を並々と注ぐ。
 「ほらよ。景気付けだ。」
 艶やかに光り出したグラスを、バトーの空手に押し付ける。
 バトーはじっと手の中の光に見入る。

 それは次々と己の姿を変えていった。
 カレイドスコープの様に。
 永遠に戻る事を理解しない刻を具現化する。
 柳を薙ぐ風の様に。
 二度と同じ所には留まらず、それで居て永遠にそこに留まる。

 青紫の髪が、眼にちらつく。
 それとは似付かぬ青白の光が、眼を焦がす。

 同僚の扱けた頬が、脳殻で疼く。
 闇を孕んだ焦茶の瞳が、脳殻を縛る。

 何かを一緒に飲み込もうと、バトーはグラスを煽る。
 グラスの中の艶やかな光がバトーの中へ消えていく。
 かっ、と灼ける痛みが喉を駆け抜け腹の底を侵していった。
 多少のアルコールで咽る喉ではない。
 しかしその喉も、50度を超すアルコールの乱暴な刺激には耐え切る事が出来なかった。
 肺から爆発的に息を吐き出し咳き込むバトー。
 その咳に染み込んだ特徴的な臭いが痛みの様に脳殻に充満する。
 「何やってんだ。」
 からかう様な口調で呆れるイシカワ。空になったグラスを取り返す。
 再び空のグラスに並々と注がれる酒。
 その半分だけを飲むと、酒が満ち満ちたグラスの傍らに置いた。
 バトーはそのグラスを指して尋ねる。
 「コイツは?」
 「気にすんな。単なる願掛けだ。」
 「古めかしい事で。」
 「何とでも言え。」
 何の願掛けか、とは訊かなかった。
 答えは何となく判っていた。
 その答えを、バトーは聞きたくなかった。
 未だ病院で生を戦う女。
 彼女の為に注がれた酒。
 飲んだ瞬間、目眩を起こす酒。
 白乾酒という酒を、体内プラントの助けも借りずに平然と飲み続ける女。

 草薙素子。
 俺達のリーダー。
 俺達の、女神。

 再び彼女の灼け付く瞳を見んが為。

 ダイブ装置の発する光に再び包まれるイシカワを背に、バトーはその場を後にしようとする。
 「むしろ、トグサは何かを忘れようとしていたんじゃないのか?」
 そこへ、イシカワの独り言の様な声が掛けられた。
 「何か?」
 バトーの足が止まる。
 焦らす様なイシカワの態度が癇に障る。普段と変わらぬその態度が。
 「あの状態の少佐を見たのは、俺達ですら初めてだったからな。」
 ピクン、と微かにバトーの頬が引き攣る。
 「・・・その姿に困惑して、忘れようと我武者羅になっていた、とでも?」
 「と言うよりはあの姿を見て湧き上がってきた感情に困惑して、ってのが適切だろうがな。」
 「・・・。」
 「ま、生身のトグサがあれを見て何を感じたかは、俺にゃ知る由もないが、な。」
 何処まで喰えない奴なんだろう、とバトーは今更にも思った。
 病院でのトグサを思い返す。

 脳と脊髄を青白く煌く水槽の中に入れられた草薙のその様を、モニター越しにトグサ、バトー、イシカワの三人は見ていた。
 その時の、トグサの苦しそうな横顔。
 9課へ戻る為のティルトローターへと覚束無げに歩き、果てに立ち止まったトグサ。
 その時の、項垂れて悲哀に満ちた背中。

 バトーはそんなトグサを慰めた。
 「あの状態の少佐を見たのは俺達も初めてだ。」
 同じ痛みを持つ者同士が痛みを分かち合う様に。
 草薙にその腕を認められ、草薙のその実力と魅力に惚れて付き従ってきた男達。
 しかし、その二人の見詰めた草薙は、実はバトーの思う様に同じものではなかったというのか。
 思わず天を仰いだバトーと足元を見続けていたトグサの様に。
 同じ平面に存在しながら永遠に交わらぬ平行線の様に。

 「あっ、バトーさん!」
 「お久し振りです。」
 「珍しいですね、バトーさんが131時間と33分もここに来ないなんて。」
 「色々とあって、な。」
 ダイブルームを後にしたバトーがやってきたのはタチコマの居るハンガーだった。
 大仰な筋トレマシンを手にしている。
 「あれ?今日はバトーさん、筋トレをしに来たんですか?」
 「まあな。ちょっと場所借りるぞ。」
 そう言うと何処からともなくベンチを持ち出し、そこに馬乗りになって筋トレを始めた。
 「なんだあ、バトーさんと遊びたかったのになー。」
 「折角バトーさんと一緒に解こうと思って面白そうな防壁とっておいたのにー。」
 そうは言いながらもタチコマ達も慣れたもので、バトーの邪魔をせぬよう、中断していた各々の行為にまた没頭していった。

 息を整え、体の力を抜く。
 ふうう、とゆっくり丁寧に息を吐く。
 それに合わせて、爪先から掌へと押し出す様に力を入れた。
 見る間にマシンの中央、筒状の部分が縮む。
 筒の上下にある2本のフレームが大きくたわむ。
 呼吸を止めた。同時に体中の随意筋肉の伸縮も止めた。

 真っ白な空間。
 何もない時間。

 人はこれを、“無我の境地”と言うらしい。
 “我”ばかりで満たされた、この時空間を。

 すうう、と静かに息を吸う。
 それに合わせて、身体の中央から力を抜いた。
 マシンの反発が一気に爆発しそうになる。
 それに逆らって、ゆっくりと元の形に戻していく。
 身体から何かが消えていく。

 ふうう、とゆっくり丁寧に息を吐く。
 それに合わせて、爪先から掌へと押し出す様に力を入れた。
 見る間にマシンの中央、筒状の部分が縮む。
 筒の上下にある2本のフレームが大きくたわむ。
 呼吸を止めた。同時に体中の随意筋肉の伸縮も止めた。

 女の瞳。
 紅に燃えたつ。
 塵埃の中にあっても、烱、と己を貫く。
 神々しいまでに美しい。

 女の瞳が、脳殻に焼き付いて離れない。

 すうう、と静かに息を吸う。
 それに合わせて、身体の中央から力を抜いた。
 マシンの反発が一気に爆発しそうになる。
 それに逆らって、ゆっくりと元の形に戻していく。

 ふうう、とゆっくり丁寧に息を吐く。
 それに合わせて、爪先から掌へと押し出す様に力を入れた。
 見る間にマシンの中央、筒状の部分が縮む。
 筒の上下にある2本のフレームが大きくたわむ。
 呼吸を止めた。同時に体中の随意筋肉の伸縮も止めた。

 ギロチンの刃が落ちる。
 己を突き飛ばした女の身体の上。
 重力に反発しながら引き寄せられていく鉄骨。
 鈍い赤鉄色。
 獣の様な悲鳴。

 見開かれた女の瞳が、脳殻に焼き付いて離れようとしない。

 すうう、と静かに息を吸う。
 それに合わせて、身体の中央から力を抜いた。
 マシンの反発が一気に爆発しそうになる。
 それに逆らって、ゆっくりと元の形に戻していく。

 ふうう、とゆっくり丁寧に息を吐く。
 それに合わせて、爪先から掌へと押し出す様に力を入れた。
 見る間にマシンの中央、筒状の部分が縮む。
 筒の上下にある2本のフレームが大きくたわむ。
 呼吸を止めた。同時に体中の随意筋肉の伸縮も止めた。

 焦茶の瞳。
 見開かれた。
 光を発するその闇は、無限の様に己を飲み込む。
 己を見詰め返してこない、男の瞳。

 口を押さえたその掌は、何を堪える為であったか。

 すうう、と静かに息を吸う。
 それに合わせて、身体の中央から力を抜いた。
 マシンの反発が一気に爆発しそうになる。
 それに逆らって、ゆっくりと元の形に戻していく。

 ふうう、とゆっくり丁寧に息を吐く。

 吐き気?
 否。

 すうう、と静かに息を吸う。
 
 ふうう、とゆっくり丁寧に息を吐く。

 憐憫?
 否。

 すうう、と静かに息を吸う。

 ふうう、とゆっくり丁寧に息を吐く。
 それに合わせて、爪先から掌へと押し出す様に力を入れた。
 見る間にマシンの中央、筒状の部分が縮む。
 筒の上下にある2本のフレームが大きくたわむ。
 呼吸を止めた。同時に体中の随意筋肉の伸縮も止めた。

 喚声?
 否。
 悲哀?
 否。
 嗚咽?

 すうう、と静かに息を吸う。
 それに合わせて、身体の中央から力を抜いた。
 マシンの反発が一気に爆発しそうになる。
 それに逆らって、ゆっくりと元の形に戻していく。
 身体から何かが消えていく。

 否。

 「どうしたの、バトーさん?」
 タチコマの声でバトーは我に返る。
 「いつもより心拍数が上がってますよ?」
 「体熱の上昇も大きいし。」
 「大丈夫?」
 人間よりも大きな機体を押し合いながら、九機のタチコマはわらわらとバトーに寄っていく。
 “思考戦車”という厳めしさとは対照的な彼等の仕草に、思わずバトーの眉間の皺も消える。
 「お前等が心配する事じゃねェよ。」
 言いながらベンチを片付ける。
 「バトーさん、もう行っちゃうの?」
 「ああ、トグサがまた来るまでに書類を1つ上げておかないとな。」
 「トグサ君?」
 「どうしたの?」
 「家に帰った・・・と言うより、“帰した”かな?あれは。」
 「何だァ。トグサ君でまた遊ぼうと思ったのにィ。」
 「・・・お前等、トグサが聞いたら怒るぞ。」
 トグサの事が話題に上った為か、不意にバトーはある事が気に掛かった。
 わざわざそれをタチコマに訊くまでもなく、報告書を閲覧すれば簡単に分かる事であったが、敢えてタチコマに訊いた。
 バトーにしてみれば、単なる確認の為の作業に過ぎなかった。
 「なあタチコマ。」
 「なあにー?」
 「新浜埠頭の旧コンテナ集積所にいた思考戦車、覚えてるか?」
 「勿論ですとも!ちゃんとデータ化して保存してあります。」
 「じゃあ、そいつの認証コードのデータはあるか?」
 途端に饒舌なタチコマが沈黙する。
 「・・・どうしたんだよ?」
 「あのーですね、こんな事言うのは僕等としても恥ずかしいんですが・・・。」
 「?」
 「・・・あのね、分からなかったの。」
 「分からなかっただあ?お前等がか?」
 「はい。」
 「やー面目ない・・・。」
 「情けねェなあ。お前等も・・・。」
 「すみません、流石に僕等もネットに繫がっていない奴にはアクセスできなくて・・・。」
 一瞬拍子抜けしたバトーは、その言葉に吐きかけた溜息を止めた。
 「ネットに繫がってないだと?」
 「うん。」
 「仲間同士での遣り取りはしていなかったってのか?」
 「はい。隊長クラスの人間にハッキングしてみたんですが、そこにもあの思考戦車との交信記録はありませんでした。」
 「情報が削除された可能性は0.1%未満です。」
 ネットに繫がっていない。
 そのたった1つの事実が、喉の奥で痞えていた。
 どくん、と鼓動が響く。
 セオリー通りに考えるならば、その戦車は自閉モードにしていた、という事になる。
 敵味方入り乱れての戦闘の最中に。
 バトーは電通を入れた。
 『イシカワ。』
 『何だ。』
 『思考戦車の購入者リストってあるか?』
 『今パズが裏を取っている。どうした?ゴーストでも囁いたか?』

 バトーが話をしている間、イシカワは黙ったままだった。
 『成る程な。ちと突飛な話じゃあるが、確かに今の所考え得る限りでソイツの可能性が一番高いな。』
 『今すぐ裏は取れるか?』
 『任せろ。こっちは実質パズと2人掛りだ。2時間もありゃあ楽勝だ。』
 『頼んだぜ。』
 電通が切れた後も、バトーは廊下の壁にもたれたまま、ぼんやりとしていた。
 これ程迄にあの思考戦車に拘っている自分が信じられなかった。
 あの、草薙を処刑せしめんと牙を剥いた思考戦車に。
 ゴーストなぞ囁いてはいなかった。むしろその首を絞めて無理矢理喚声を上げさせたに近い。
 結果としてその拘りが、新たに犯罪を暴きかけているのは真実であり真理である。
 しかし、それは単なる結果論に過ぎない。
 9課の様な、常に己の“正義”をもって動かなければならない組織の中にあっては、意味のない拘りなど足枷でしかない。
 だからこそ、思考戦車に拘りしがみ付くトグサを咎めたのだ。
 己の事など棚に上げて。

 言い様の知れないものが己の奥底で蠢いていた。
 どす黒く醜悪な、それでいて愛おしい、何か。
 己の全てをある一点に押し止め、縛り付けようとする、何か。
 トグサが草薙に抱いた感情。
 トグサが表に出すまいとして堪えた感情。
 掌で押さえられた口から溢れ出そうとしていたものは。
 首の鼓動を痛い位に感じた。
 目眩がする。
 蠢く何かが、身体の全てを揺さぶる。
 存在しない痛みが、精神を暗澹へと引き摺り込む。

 トグサが草薙に抱いた感情は。
 焦茶の瞳。
 その女の全てを捕らえようと視線を草薙に射たその瞳。
 皺を深く刻んだ眉間。
 草薙への感情を滲ませたその眉間。
 どうして気付かなかったのだろう。
 間近でそれを見詰めながら。
 否、確かに気付いていた筈だった。
 その存在を認めなかったのは、己自身の中にあるものだった。
 自分勝手な虚像をそれに塗りたくった。
 悲哀。
 憂苦。
 憐憫。
 驚愕。
 己と同じ感情。
 だが、塗りたくられた虚像の中で息吹を続けるその真実は。
 トグサが拘っていたものは。
 戦車などではない、他の。
 めし、と身体が軋んでいく。
 気が、狂う。

 暗澹に潜み、大地を揺るがす。
 地震を起こす、巨人族。

 そうか。そうであったのか。
 バトーはようやく気付いた。
 己の奥底で蠢き、己の総てを揺さぶる、この怪物の名を。
 他人の不幸を冀う怪物の。

 喚く様な声で、バトーは嗤った。
 世界の総てが、揺り動く様に。


          続

 


貴女の犯した罪は。

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