24色のソメイヨシノ RAINBOW COLOER
「ただいまー。」
「あら、お帰りなさい。」
バシャバシャという水の音と共に妻の声が返ってきた。洗い物をしているのだろう。
「今日は早かったのね。」
「うん、思ったより早く片が付いてね。」
脱いだコートをソファーに放り、しゅる、とネクタイを外す。もう身に染み付いてしまった帰宅後の動作。
そのままソファーに腰掛け一息吐いていると、洗い物を終えた妻がエプロンを外しながらトグサに声を掛けた。
「外、寒かったでしょう?今お茶を入れるわ。」
「ああ、頼む。流石に雪まで降って来ると堪えるよ。」
「え?雪、降ってるの?」
「ついさっき降り始めたよ。」
「あらやだ、本当。」
妻はカーテンを少し開け、外を見る。
「積もったら子供達が大はしゃぎね。」
「だろうね。」
雪景色の中を元気に走り回る娘と息子を想像して、トグサは思わず微笑んだ。
「ああ、そうそう。」
妻がトグサを向く。
「子供達で思い出したわ。あなた、今度の週末空いてないかしら?」
「え・・・。」
一瞬トグサはたじろぐ。
週末。
土曜から月曜にかけて日中の首脳会談が日本で行われる。
そして、そうした政治的イベントに必ず付いて回るもう一つのイベントがある。即ちそれが“テロ”であり、現に今回の会談に於いても、中国に拠点を置くテログループの一部が偽造パスポートで密入国した処を逮捕されたという報告が上がっていた。そのグループが、トグサ等公安9課の追っていた大規模な麻薬密売の元締めであると目されている事もあって、9課長の荒巻は総理大臣からの警備依頼を承諾した。
9課の隊長であるトグサに、週末の自宅待機が見込める筈もない。
「ごめん・・・。週末は・・・。」
言い淀むトグサに、しかし妻は笑って応える。
「良いのよ、気にしないで。」
「本当にごめん。・・・でも、何でまた急に?」
「お姉ちゃんがどうしても早く欲しいんだって。幼稚園のお友達は皆もう買ってあるみたいで。」
何を、と訊き返そうとして、はたと思い至る。
そうか、もうそんな時期か。
子供の成長は親が思う以上に早い。おくるみの真っ白な布に包まれて湯気を立てていた娘の姿が、まるで昨日の事のようだと言うのに。
いつの間にか「パパ」と喋り、いつの間にか立ち上がり、とてとてと歩き、色んな物に興味を持っては走り回る。子供同士のコミュニティを形成し、友達が出来て恋をして。
やがていつか自分の下を巣立っていってしまうのだろう。それを思うと少し寂しかった。それでも、娘の成長は素直に嬉しくもあった。
「それなら、平日の夕方はどうかな?金曜日はミーティングがあったりして忙しいけど、木曜ならその位の時間は取れそうだし。」
「本当?それじゃ、木曜日の夕方に皆で買いに行きましょうか。」
妻が湯気の立ち上る湯飲みを二つ、ソファーに持って来ながら言った。
トグサは、その一つを受け取ると、ふと思い出したように妻に尋ねた。
「そういえば、お姉ちゃんは何色が良いって?」
「それがねえ、・・・。」
「やだッ!」
大手ショッピングセンターの催事場。そこに響く子供の声。
「そのいろじゃやなの!」
娘の突然の癇癪に困りかねてトグサは妻と顔を見合わせる。
先刻からトグサと妻が目ぼしい物を見付けては「これはどう?」「こっちが良い?」と娘に尋ねているのだが、中々首を縦に振らない。どころか、段々とむくれていくのである。
そして遂に堪り兼ねた娘の発した意思表示が、先のそれであった。
「どうしたんだ急に?この色は嫌か?そしたらもっと違う黄色もあるぞ。ほら――」
「きいろはやなの!」
地団駄を踏んで更に娘は叫ぶ。単にこの黄色が嫌なのかとトグサは思ったのだが、どうもそうではないらしい。
「どうしたのお姉ちゃん、この前訊いたら黄色が良いって言ってたのに・・・。」
娘の目線に合わせるように妻がしゃがむと、娘は母親から目をそらして自分の足下を睨み付ける。
「よし、じゃあミカ、黄色が嫌なら何色が良いんだ?」
というトグサの問いかけにも、押し黙ったままである。
「ねえ、お姉ちゃん。・・・ミカ。」
妻が娘の両腕を掴んで軽く揺する。
不穏な空気を感じ取ったのか、トグサの腕の中で息子が愚図り始めた。
通り掛る人々の不躾な好奇の目線が、痛い。
暫くして、漸くその小さな口から更に小さな声が零れ落ちた。
「・・・ピンク。」
息子をあやしながらトグサは訊き返す。
「ピンク色が良いのか?」
こくん。無言のままに、大きく首が縦に振られる。
でも、と妻がトグサも感じた疑問を口にした。
「でも、何で急にピンクにしたくなったの?あんなに『黄色がいい』って言っていたのに・・・。」
「だって・・・。」
小さく呟く娘は、まだ顔を上げようとしない。
「だって、かなちゃんもちーちゃんもみやこちゃんも、みんなピンクなんだもん・・・。」
ひっく、としゃくりあげる声が聞こえた。
ぽたん、ぽたん。スカートに落ちた涙は色を滲ませながら布地に染み込んでいく。
「そ、れに、」
喉の痙攣を堪えながら切れ切れに絞り出す言葉は、残忍な刃となってトグサを妻を襲う。
「たっくん、も、しゅん、くんも、だいちゃんもッお、とこのこ、みん、な、きいろ、だもん・・・ッ。」
子供は仲間外れを嫌悪する。
どれだけの世代を積み重ねても、深い所でそれは連綿として受け継がれているのである。
仲間外れである処の“他者”を排除する。
そのナショナリズムじみた思考と行為は、“倭の民”であり同時に“日本国民”である人間の多い日本に於いて、特に顕著である。
そして大人でこそ世間体やら面子やら人付き合いやら、種々の雑念に誤魔化されてそれらが現れる事は少ないが、子供にそうしたしがらみは一切ない。それ故に、単純且つ純粋で辛辣な“仲間外れ”の思考と行動は、子供達の精神という喉笛に、極めて無情に咬み付くのである。
何か言おうと口を開きかけた妻の横にしゃがみ、娘と同じ目線でトグサは言う。
「ミカ、これはお前の物なんだから、パパもママも何にも言わないよ。ミカが好きな色にすれば良い。」
両手で懸命に涙を拭い続ける娘の頭に、そっと手を乗せる。
本物ではない、偽物の、その手を。
「でもミカ。ミカはこれから六年間、ずうっとそれを使い続けなきゃいけないんだぞ。途中でやっぱり違う色が良かったって思っても、パパもママも二つ目は買ってあげられないよ。」
そう。
誰かに強要されるのでもなく、付和雷同するのでもなく。
ただ、君には、君の望む道を歩んで欲しいから。
決して後悔しないように。
「かなちゃんや、ちーちゃんや、みやこちゃんと、同じじゃなくても良いんだよ。」
誰に強要されるでもなく、自らの意思で義体化したその手で撫でながら、トグサは続ける。
「たっくんや、しゅんくんや、だいちゃんが黄色でも、黄色は男の子だけの色じゃないんだよ。」
同僚や、あの人を真似したのではない、義体の手。
「ミカ。」
囁く意思は、君に届いているだろうか。
「ミカは本当は、何色が良いの?」
「ねーね。」
不意に息子が声を上げる。
身を捩ってトグサの腕の中から出ようとするのを、トグサはゆっくり下ろしてやる。
とてて、と覚束ない足取りで姉に近付くと、涙の染み込んだスカートをぎゅっと握った。
「ねーね、なくの、めー。」
舌足らずな口調で精一杯姉を慰める。
「めーよ。なくの、めー。」
「ゆうくん・・・。」
ゆっくりと顔を上げて、弟の顔を見る。
年下に慰められている事に気付いた娘は、慌てて袖で顔をごしごし擦ると、真っ赤な顔でにこっと笑った。
「ゆうくんてば、ねーね、ないてなんかないよう。」
「ねーね、なかない?」
首を傾げて息子が訊く。
「なかないよ。ねーねはないたりしないの。」
スカートを握り締めた手を取って、娘は答える。
その光景に、思わず笑みを漏らした妻とトグサが立ち上がる。
「さてと、じゃあミカ、どの色が良いの?」
改めて尋ねる妻に、娘は元気良く答えた。
「きいろ!」
結局、色以外の機能について散々に悩み、購入したのはそれから随分経ってからだった。
「そういえば、ミカ。」
自宅へと車を走らせながらトグサは助手席に座る娘に訊く。
「どうして黄色が良かったんだ?」
以前は特別色に拘ってはいなかったが、それでもカチューシャやリボンは赤やピンク等の暖色系が殆どだった。
「だって、きいろはパパのいろでしょ?」
「?パパの色?」
髪や瞳は黄色ではないし、毎日着けるネクタイも鈍い赤だ。
不思議に思っていると、
「だってパパのおはな、きいろだったもん。」
おはな?
パパの、お花?
ああ、と声を上げたのは後部座席に息子と乗っていた妻である。
「もしかして、父の日の黄色いバラの事?」
「うん。」
父の日。黄色いバラ。
トグサははたと思い至る。
父の日に妻と子供達から贈られたネクタイ。
その化粧箱に付いていた飾りは、黄色いバラ。
母の日の赤いカーネーションに対して、日本では父の日に黄色いバラを贈るものらしい。言われてみれば、父の日が近付くとよく黄色いバラをあしらった飾りをよく見掛ける。
娘はそれを覚えていたのだろう。
「パパとおんなじきいろで、がっこういくの!」
誰かに強要されるのでもなく、付和雷同するのでもなく。
娘が選んだその色は、自分の色。
“父”の、色。
トグサは笑みを浮かべながら、車のアクセルをそっと踏んだ。
後日、トグサが携帯端末の新しい壁紙を同僚達に見せて回って、思い切り煙たがられたかどうかについては、敢えてここでは特記しない。
ただ、黄色のランドセルを誇らしげに背負った娘の写真が長い間壁紙に設定されていた事だけは、述べておく事とする。
了
同一なる共同作業を玩ぶ。
トグサ娘→ミカ トグサ息子→ゆうすけ で脳内変換お願いします。