民放ラジオ OLD MEMORY
僕が立っている場所と丁度同じ高さの所、僕より少し離れた位置にそれはあった。
漆黒に光沢する小さな塊。
旧式のダイアルが二つ、仲良く並んでいる。
ざりざり。そのスピーカーから流れるのは音を成さないノイズ。砂嵐。
壊れたラジオ。
言葉を拾えない、それは壊れたラジオ。
単なる比喩だ。
電脳の世界に電波は流れてこない。
あらゆる物質が、物理が、原子が存在し得ず、0と1の羅列の中に虚構を生み出す世界。それがこの電脳空間なのだから。
だからラジオは、単なる比喩だ。
ラジオの形をした情報を青く光る虚実の床から拾い上げる。
干渉するように調べてみると、声を上げた。
「こんにちは。」
余りに唐突過ぎて、干渉した自分が吃驚した。
ざりざりと砂が擦れる音の切れ間に聞こえる声。
とても綺麗な、女性の声だ。
「こんにちは。」
誰に向けたのでもない、声。僕を通り過ぎて遠く消えていく呼びかけの挨拶。
だけどそれは、僕に向けて、話しかけていた。
「こんにちは。」
「今日は。」
思わず返す。
「わたしを、わすれないで。」
それだけ言うと、声は消えた。耳をかき混ぜるノイズも、消えた。
僕の手に残された漆黒のポータブルラジオは、冷たく沈黙を守るばかりである。
死ぬ間際になって後悔は訪れる。
未来が見えた瞬間に未来が不変である事を悟り、そして可変領域を求めて僅かばかり可変領域の残る過去を見つめるからだ。
この声の主が何を後悔したのかは知らないが、誰かに己の事を覚えておいて欲しいと望むだけの後悔はしたようだ。
電脳世界には存在し得ないラジオは、即ちそのまま声の主の思いの強さを意味する。
現実世界である図書博物館に戻ってきた筈の僕の掌には、しっかりとその重みが残されていた。
「大丈夫、忘れませんよ。人に忘れられたこの空間で、いつまでも貴女を覚えています。」
*
「あら?」
店の主である老婦人は訝しげに古びたポータブルラジオを手に取った。
先刻までスイッチが入っていた筈のラジオが、急に音を出さなくなったのだ。
最も、音とは言っても単なるノイズに過ぎない。預けられた時から毀れていて、音は拾えない。
それでも、毎年この日にはスイッチを入れて、チャンネルを合わせている。それが彼女の仕事であったし持ち主からの依頼でもあり、そしてこの外部記憶装置
への儀式みたいなものでもあった。
「変ねえ・・・壊れてしまったのかしら?」
電池は今日入れたばかりだし、スイッチもONのままである。
しかし、何度チャンネルを変えても音はしなかった。ボリュームのダイアルを回転させても、同じだった。
完全に音が出なくなった事を確かめた老婦人は、ラジオから電池を抜いて、そっと元の棚に戻した。
ラジオの隣には、螺旋の巻けないオルゴール。
幼児の為の、動物の形をした木製のブロック。
色あせした装丁が重たい百科事典。
赤いリボン。
錆の浮いたヤジロベー。
皹の入った陶製のマグカップ。
時間を刻まない置時計。
写真の入っていない写真立て。
子供用の小さい革靴。
そんなものが全ての棚に所狭しと並んでいる。
店全体を見回しても、そんなものばかりだ。
凹凸を作る本棚の本たち。
縦型の棚には巨大なレコードが列を成す。
一列に床に並ぶ靴は、サイズも形状も全く異なる。
ハンガーにかけられた洋服しかり。
溢れる程に物がひしめく中で、老婦人はそれらを一つ一つ見回していく。
一見すれば単なるガラクタの山々は、しかし全て持ち主にとっては大切な思い出の品、外部記憶だった。それらを預かり保管するのがこの店の務めであり、ひいてはそれこそがこの店の存在意義であった。
やがて納得がいったのか、老婦人は店の外に出ると扉の看板をひっくり返す。
“OREN”から“CROSE”へ。
そして今日も“牢記物店”は一日の仕事を終え、ゆっくりと眠りについた。
了
貴方の事を忘れても貴方の事を覚えていよう。